[気づき]対話による言語化の効用
最近、社外の人と特定のテーマでフリーディスカッションを継続的にしているんだけども、とても良い。前から思っていたことをぶつけ合ったり、あえてストーリーを決めずに思いついたことを取り止めもなく語るんだけど、自分の中では関連づけられているので思わぬところで話がつながったりする。
従来はブログや今もツイッターで散文的にアウトプットは続けているんだけども、対話のいいところはリアルタイムでリアクションを頂けることだと思う。
話しながら、考えを修正したり、アウフヘーベンさせることができる。
口で発しながら、自分でそのことを改めて考えてみることもできるので、目の前の人だけではなく自分とも同時に対話している感じがある。
そうなってくると、自分という存在がもはや相対的なものというか、発信して初めて自分の外延が明らかになるような気もしてくる。
もちろん何も発信しなくても自分は自分として存在しているとは思うんだけども。
対話に限らず、自分自身の価値というのはそれを評価する人によって異なって見えることがあるようだ。
もちろん、見かけの評価だけを高めるというのは違うと思うけども、うちで高めつつ適度に外に出てその評価にさらされてみると面白い気づきがあるのかもしれない。
それが結局、「市場価値」というものなんだろうなー。